「豐饒の海」へ奔流する、三島由紀夫の「肉體の河」。
写真家・細江英公氏 自身の選定による未収録写真5点を追加。デザイナー・浅葉克己氏によって形造られた二十一世紀版デザイン。最高峰の印刷技術「グラセット」の採用。一冊づつ、人の手によって作られた『二十一世紀版 薔薇刑』が今ふたたび世界へ発信される。
特別愛蔵版写真集『二十一世紀版 薔薇刑』
\ 60,000(税抜)/ 1巻
著者:細江英公
被寫體および序文:三島由紀夫
造本構成:浅葉克己
制作・発行:株式会社YMP (現在:アムスホールディングス株式会社)
発売元・販売元:丸善株式会社
[ISBNコード] 978-4-908578-00-7 C ¥60000E

B4変形上製、102頁、専用函付き
平成27年11月25日発売
三島由紀夫について
1970(昭和45)年、45歳の年若さで逝った三島由紀夫は、古今東西の文化・文学に精通、日本ばかりか、ジョルジュ・バタイユの言葉を借りれば 【美=エロティシズム=死の深淵】 を追求し続けた稀有な作家でした。その独自の視点から照射された著作は、今なお多くの読者を魅了し続けております。

『仮面の告白』で戦後、衝撃的に小説家としてデビューした三島由紀夫は、『禁色』、『美徳のよろめき』、『宴のあと』など、社会的に話題となるような各種の問題作、さらに『金閣寺』、『潮騒』などの名作を発表。そしてその集大成ともいうべき、最後の大河作品『豊饒の海』(第四巻『天人五衰』)まで、実に多くの作品を世に送り出しました。
それは小説にとどまらず戯曲―新劇・能・歌舞伎―、古今東西、多種多様な文化・文学・美術を渉猟し、考察した各種の評論を発表。
さらには作家と言う立場にとどまらず、戯曲を書き下ろし、演劇・映画の演出を手掛け、さらに映画作品に自ら主演しました。

あるいは、いわゆる"文学者は脆弱である"という作家に対する世間の固定観念を払拭するかのごとく、ボディビル、ボクシング、そして剣道、空手と自からの肉体を鍛錬、改造し、自らがギリシャ的なトルソーに変貌するという美学につきすすんでいきました…。
小説の世界においては、作品と作者の関係性を云々するのは、きわめて愚直な詮索にすぎませんが、とくに作家三島由紀夫の世界は、その創作作品や各種のエッセイなどで発表された物語るものから判断するに、多くの碩学、研究者が指摘するごとく、その作家生活の始めに発表された『仮面の告白』に象徴されるように、その生涯でいくつもの"仮面"-あたかも「蘭陵王」のように、美しく軟弱な顔を隠すかのように-をつけていたのではないか…ともいわれています。

さて、三島由紀夫の世界は実に多様で、人は彼の生涯を概括するに一つの壮大なる星雲・宇宙を想起するともいわれます。事実、そのもっとも中心的な小説世界だけみても、四六駢儷体、擬古文体で、横溢する花の香りのように、煌びやかで幻惑されるようなカレイドスコープ(万華鏡)的空間、否、ミクロコスモス(小宇宙)が三島由紀夫の世界である・・とも感じてしまうことでしょう…。
しかしながらよくみると、三島由紀夫の世界とは、そのきわめて技巧的に構築された大伽藍ではあるものの、その下には、連綿と続いてきた日本美の十全たる精神性によって下地が築かれていることに気付きます。それはこれまでの一面的な-高踏的、晦渋的な-三島由紀夫の世界を一変させるものであるかもしれません。それはあたかもかの絢爛豪華な『金閣寺』が、その陽に煌めくように、金色に照り輝く色彩が、その無数に貼られた金箔の下に日本の美を象徴する黒漆が塗られているからこそ、あれほど輝くのだ・・・という形容にもあてはまります。


三島由紀夫 略歴
■ 三島由紀夫
本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)、1925(大正14)年1月14日 - 1970(昭和45)年11月25日。
日本の小説家・劇作家・評論家。
大東亜戦争後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがあります。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴です。

■ 作風・評価
三島由紀夫の文体は、終始レトリックを多様に使っているところが最大の特徴ともいえるでしょう。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近いものがあります。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ余韻のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析しています。
三島文学の作風としては生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動といった二元論的思考がみられますが、単純な対立関係ではないところに特徴があります(本人曰く、「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べています)。

代表作の一つ『仮面の告白』の題に関しましては、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念ではりますが、両者をアイロニカルに接合している事が指摘されております。『純白の夜』、『愛の渇き』、『美徳のよろめき』、『春の雪』なども、反対の概念をアイロニカルに組み合わせたタイトルの好例です。

近代日本文学史のカテゴリーにおいては、ロマン主義、耽美主義、芸術至上主義に分類されております。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といった、垂直のエロティシズム志向(観念)も、『憂国』、『春の雪』で顕著に表れておりますが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す際に現出するほぼ不可能、且つ極限の試みであり、三島由紀夫のロマン主義的憧憬とも、ある意味、一部一致するものでありました。三島由紀夫はバタイユについて、「人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は"本心からではない"ことをバタイユは冷酷に指摘する。その"本心"こそ、バタイユのいはゆる"エロティシズム"の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた」と論じていました。また、死の1週間前に行なわれた、古林尚との対談の中では、「バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけ出そうとして、実に一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです」と述べています。

また作品の華麗なる人工的な美も指摘されております。その人工的な美について、川端康成氏は三島由紀夫の初の長編『盗賊』の書評の中で、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある」と記しています。

女優・村松英子氏によると、三島由紀夫は、「基本としてドメスティック(日常的)な演技を必要だけど、それだけじゃ、"演劇"にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたといいます。また、荻昌弘との対談でも三島由紀夫は、「アーサー・シモンズの言葉、『芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、猥褻感を起させることだ』というのがあるが、これは千古の名言だと思う」と述べられ、「日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ」という芸術論を持っていらっしゃいました。

10歳の時に書かれたという小品『世界の驚異』、14歳の時の詩『凶ごと(まがごと)』から、『金閣寺』、『鏡子の家』、最晩年の『豊饒の海』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品には、ペシミズム的・ニヒリズム的な傾向が認められます。三島由紀夫自身、「『鏡子の家』は、いはば私の"ニヒリズム研究"だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった。佐伯彰一も『鏡子の家』について、登場人物の「ぶつかり合いが起こらない」として、低評価を与えていますが、実は、三島由紀夫の「創作ノート」では、人物間の絡み合う場面がいくつか構想されておりました。しかしながら、それらの構想は、皆廃案とされてしまったのです。井上隆史氏は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能であるように思われる」と述べています。佐藤秀明氏は、「4人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言えるのである」、「彼らの危機は、一様に"ニヒリズム"と呼ぶことができる。そのニヒリズムの芽を彼らは待ち続け、より大きな破壊を待望していた気配はある」という見解を示しています。

三島由紀夫は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲です。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意としました。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえます。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島由紀夫は『豊饒の海』第3巻『暁の寺』脱稿後の心境を、「いひしれぬ不快」だったと述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島由紀夫が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されましょう。これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れています。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものですが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映しています。晩年5年間は、「楯の会」隊長として、政治的活動に傾斜してゆきました。

『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスン氏は、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定したのだ」、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と述べています。

三島由紀夫の創作傾向は、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、能楽や歌舞伎、エウリピデスなどを下敷きにした数々の戯曲、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典から、その源泉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がありました。

■ 略年譜
1925年(大正14年)
1月14日 - 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)。
1930年(昭和5年)
1月 - 自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。
1931年(昭和6年)
4月 - 学習院初等科に入学。
1934年(昭和9年)
12月 - 肺門リンパ腺を患う。
1937年(昭和12年)
4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。
1938年(昭和13年)
3月 - 『酸模-秋彦の幼き思い出』。『座禅物語』。俳句4句。詩『金鈴』(光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場ほか短歌3首)(「輔仁會雑誌」161号)。
10月 - 初めて歌舞伎、能を観る。
1939年(昭和14年)
4月 - 成城高校から清水文雄先生就任。
1940年(昭和15年)
1月 - 川路柳虹宅を母と訪問。俳句・詩を川路に師事し、平岡青城名で「山梔」に発表。詩作『凶ごと』。
11月 - 『彩絵硝子』(「輔仁會雑誌」)。東文彦、徳川義恭と交友を持つ。
1941年(昭和16年)
4月 - 「輔仁會雑誌」編集長に選任される。
7月 - 川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。
9月 - ペンネームを三島由紀夫とし、『花ざかりの森』(同人誌「文藝文化」9月号から12月号まで4回連載)。蓮田善明に激賞される。
1942年(昭和17年)
3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番)。
4月 - 学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。
5月 - 文芸部委員長に選任される。
7月 - 東文彦、徳川義恭の3人で、同人誌「赤繪」を創刊。
11月 - 清水文雄と共に、初めて保田與重郎を訪問。
1943年(昭和18年)
1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。
2月 - 「輔仁會」の総務部総務幹事となる。
3月 - 『世々に残さん』(「文藝文化」10月号まで連載)。
6月 - 富士正晴に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人林富士馬に電話をして三島を連れて行く。その後、林と文学的文通、交際が深まる。この時期、蓮田善明とも顔を会わせる。
7月 - 徳川義恭と共に、志賀直哉を訪問。
10月 - 富士、林と共に、佐藤春夫を訪問。東文彦が死去。
1944年(昭和19年)
4月 - 徴兵検査通達書を受け取る。発信者は、本籍地・兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二。
5月 - 兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。その足で伊東静雄を訪問。
9月 - 学習院高等科を首席で卒業。宮中に参内し、天皇より恩賜の銀時計を拝受。
10月 - 東京帝国大学法学法律学科(独法)に推薦入学。処女小説集『花ざかりの森』(七丈書院)刊。
1945年(昭和20年)
1月 - 学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊としての群馬県の中島飛行機小泉製作所に配置される。群馬県新田郡太田町東矢島寮11寮35号室に入る。
2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」2月号)。入営通知の電報が来る。出立までに遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する。兵庫県富合村で入隊検査を受け、右肺浸潤の診断が下され、即日帰郷となる。
5月 - 学徒動員に伴い、神奈川県の海軍高座工廠に配置される。神奈川県高座郡大和局気付高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第一中隊第二小隊に入る。
8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」5・6月合併号)。蓮田善明が自死。
10月 - 妹・美津子が死去。
1946年(昭和21年)
1月 - 川端康成を初めて訪問。
6月 - 『煙草』(雑誌「人間」)。
11月 - 『岬にての物語』(「群像」)。
12月 - 『中世』(全編)(「人間」)。太宰治に会う。
1947年(昭和22年)
4月 - 『軽王子と衣通姫』(「群像」)
6月 - 林房雄と出会う。以降、親交を持つ。
11月 - 東京大学法学部法律学科卒業。
12月 - 高等文官試験合格。大蔵省大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。
『盗賊』第2章(「文学会議」)。
1948年(昭和23年)
2月 - 『盗賊』第1章(「午前」)。
3月 - 『盗賊』第3章(「思潮」)、第5章(「新文学」)。
9月 - 願に依って大蔵省本官を退職。
10月 - 『盗賊』第4章(「文学会議」)。河出書房の同人誌「序曲」の創刊に参加。
11月 - 『盗賊』(真光社)刊。
1949年(昭和24年)
7月 - 書き下ろし長編『仮面の告白』(河出書房)刊。
12月 - 徳川義恭が死去。
1950年(昭和25年)
6月 - 書き下ろし長編『愛の渇き』(新潮社)刊。
7月 - 『青の時代』(雑誌「新潮」12月号まで連載)。
1951年(昭和26年)
1月 - 『禁色』第1部(「群像」10月号まで連載)。
12月 - 朝日新聞特別通信員として初めての世界旅行(翌年5月帰国)。
1952年(昭和27年)
8月 - 『禁色(秘楽)』第2部(「文学界」1953年8月号まで連載)。
10月 - 『真夏の死』(「新潮」)。紀行文集『アポロの杯』(朝日新聞社)刊。
1953年(昭和28年)
10月 - 『ラディゲの死』(「中央公論」)。
1954年(昭和29年)
6月 - 書き下ろし長編『潮騒』(新潮社)刊。叢書4、11月までに94000部刊行。
10月 - 『潮騒』、第1回新潮社文学賞受賞。
1955年(昭和30年)
1月 - 『沈める滝』(「中央公論」4月号まで連載)。
9月 - ボディビルを始める。
10月 - 『白蟻の巣』を劇団青年座が初演。
1956年(昭和31年)
1月 - 『金閣寺』(「新潮」10月号まで連載)。『白蟻の巣』、第2回岸田演劇賞受賞。
3月 - 「文学座」に入座。
4月 - 戯曲集『近代能楽集』(新潮社)刊。
9月 - ボクシングを始める(1957年6月ごろまで)。
11月 - 『鹿鳴館』を文学座が初演。
12月 - 『鹿鳴館』、毎日演劇賞。『永すぎた春』(講談社)刊。
1957年(昭和32年)
1月 - 『金閣寺』、第8回読売文学賞受賞。
4月 - 『美徳のよろめき』(「群像」6月号まで連載)。
1958年(昭和33年)
6月 - 画家杉山寧の娘・瑤子と結婚。
7月 - 『薔薇と海賊』を文学座が初演。エッセイ『不道徳教育講座』(「週刊明星」1959年11月29日号まで)。
10月 - 『鏡子の家』第1章と第2章途中まで(「声」創刊号)。
11月 - 本格的に剣道を始める。
12月 - 『薔薇と海賊』、週刊読売新劇賞受賞。
1959年(昭和34年)
1月 - 『文章読本』(「婦人公論」)。
6月 - 長女・紀子が誕生。
9月 - 書き下ろし長編『鏡子の家』第一部(上巻)、第二部(下巻)(新潮社)刊。
11月 - 日記『裸体と衣裳』(新潮社)刊。
1960年(昭和35年)
1月 - 『宴のあと』(「中央公論」10月号まで連載)。
3月 - 大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)主演。封切。
1961年(昭和36年)
1月 - 『憂国』(「小説中央公論」冬季号)。
3月 - 『宴のあと』モデル問題で、有田八郎に提訴される(1966年和解)。
4月 - 剣道初段に合格。
6月 - 『獣の戯れ』(「週刊新潮」9月4日号まで連載)。
11月 - 『十日の菊』を文学座が初演。
1962年(昭和37年)
1月 - 『美しい星』(「新潮」11月号まで)。『十日の菊』、第13回読売文学賞戯曲賞受賞。
3月 - 『黒蜥蜴』をプロデューサー・システムにより初演。
5月 - 長男・威一郎が誕生。
1963年(昭和38年)
1月 - 文学座から芥川比呂志、岸田今日子ら29人の劇団員が脱退し、福田恆存が中心となる「劇団雲」が結成され、三島は残される。
3月 - 剣道2段に合格。
9月 - 書き下ろし長編『午後の曳航』(講談社)。
10月 - 『剣』(「新潮」)。
11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、三島は文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への「公開状」―「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
1964年(昭和39年)
1月 - 『絹と明察』(「群像」10月号まで連載)。文学座を一緒に脱退したメンバーと「劇団NLT」を結成。
3月 - 剣道3段に合格。
5月 - 『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。
1965年(昭和40年)
1月 - 『絹と明察』、第6回毎日芸術賞受賞。
4月 - 短編映画『憂国』完成。
9月 - 『豊饒の海』第一巻『春の雪』(「新潮」1967年1月号まで連載)。
11月 - 『太陽と鉄』(「批評」12号(1968年6月)まで連載)。『サド侯爵夫人』を劇団NLTが初演。
1966年(昭和41年)
1月 - 映画『憂国』、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位受賞。
5月 - 剣道4段に合格。居合を始める。
6月 - 『英霊の聲』(河出書房)刊。
10月 - 自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者に依頼。
1967年(昭和42年)
1月 - 「論争ジャーナル」の万代潔、中辻和彦と、日本学生同盟の持丸博と出会う。
2月 - 『豊饒の海』第二巻『奔馬』(「新潮」1968年8月号まで連載)。居合初段に合格。
4月 - 自衛隊に体験入隊する(5月27日まで)。
5月 - 『真夏の死』がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。『午後の曳航』もフォルメントール国際文学賞候補作品となる。
6月 - 早大国防部の代表・森田必勝と出会う。
7月 - 森田ら早大国防部と自衛隊北海道北恵庭駐屯地で体験入隊。空手を始める(6月に日本空手協会道場に入門)。
9月 - 『葉隠入門』(光文社)刊。
10月 - 『朱雀家の滅亡』を劇団NLTが初演。
11月 - 「論争ジャーナル」グループと民兵組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレットを作成。
12月 - 航空自衛隊のF-104戦闘機に試乗。山本舜勝に出会う。
1968年(昭和43年)
3月 - 自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、学生らを引率する第1回自衛隊体験入隊(30日まで)。(以降、1970年まで第5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊が行なわれる)
4月 - 劇団浪曼劇場を結成。
7月 - 『文化防衛論』(「中央公論」)。
8月 - 剣道5段に合格。
9月 - 『豊饒の海』第三巻『暁の寺』(「新潮」1970年4月号まで連載)。
10月 - 祖国防衛隊から「楯の会」正式結成。
1969年(昭和44年)
1月 - 『わが友ヒットラー』を劇団浪曼劇場が初演。
5月 - 東大全共闘委員会主催の討論会に出席。
6月 - 映画『人斬り』(五社英雄監督)出演(8月封切)。
7月 - 『癩王のテラス』を劇団浪曼劇場+劇団雲+東宝が初演。『若きサムラヒのために』(日本教文社)刊。
10月 - 持丸博の退会に伴い、楯の会の学生長が森田必勝になる。
11月 - 『蘭陵王』(「群像」)。歌舞伎『椿説弓張月』が初演。
1970年(昭和45年)
6月 - 空手初段に合格。
7月 - 『豊饒の海』第四巻『天人五衰』(「新潮」1971年1月号まで連載)。
9月 - 対談集『尚武のこころ』(日本教文社)刊。
10月 - 対談集『源泉の感情』(河出書房新社)刊。
11月25日 - 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部にて益田兼利総監を拘束し、バルコニーで演説(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決。


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